この事件は被害者の人権、プロパガンダとしての弁護等様々な面で問題提起を投げかけているのだが、そのうちの一つに量刑としての「死刑」の問題がある。
日本は基本は「矯正刑」であるにも関わらず「死刑」という「刑罰刑」が共存しており、この区分が明確でない(明確でないというのは的確ではないが、各々の事件の状況によって矯正になったり刑罰になったりする)ことが話をややこしくしているのだと思う。(この辺は 第024回国会 法務委員会公聴会 第3号とか興味深い資料があります)
イスラム社会では
固定刑(ハッド)
同態復讐刑(キサース)
矯正刑(タアズィール)
という形に分類されていて、殺人、傷害は同態復讐刑に分類されるのだそうだ。
ref:拓殖大学:イスラーム研究センター
これは恐らく被害者遺族が刑罰を決めることができると言うことなのだと思う。(刑の執行はしらないが)
個人的には殺人に関しては「刑罰刑」として処理すべきだと思っていたが、単純に刑罰刑にすることで色々な弊害が起きるのも事実であり、そういった意味では「同態復讐刑」と言うのは非常に分かりやすいなと思う。ただ分かりやすいと言うだけで実際それで被害者が救済されるのか?は分からない。徳弘正也の「近未来不老不死伝説バンパイア」の中で復讐刑の描写があったが(これは被害者の遺族が加害者の首をのこぎりで切断するというシーン)、このシーンで見られた被害者遺族の精神負担という面を考えるとやはり「司法」というフィルターが1枚挟んでいるほうが良いのかもしれない。
あとは情状酌量という面でも単純に「刑罰刑」するのは難しいのだろう。
(なので実は「矯正刑」と「刑罰刑」の問題ではなく、「情状酌量」の判定が問題なのかもしれない)
また被害者に対しての贖罪と同等に考えないといけないのは、社会に対しての安全保障である。
その辺今回の事件では被害者夫がメディアに多く露出しているためか被害者から見た感情論的な言葉で語られることが多く、この辺の視点で捉えるメディアの数は少ないように思う。
つまり犯人が死刑にならず、刑に服したとして、刑期を終える、または仮釈放(終身刑でも20年以上経過すれば仮釈申請可能)となり出所した際に、自分のとなりに引っ越してきたりしたときに受け入れられるか?ということ。(日本は絶対的終身刑は存在しない)また「刑罰刑」のその後の処置が「矯正刑」的対応であるというパラドックスが気持ちの悪いところなのかもしれない。
そういう視点で考えるともっと広い意味での陪審員制度のような、国民としての意見も取り入れるべきなのかも知れない。
今回の弁護団の安田弁護士などもその弁護手法から今回かなり批判を受けているが、弁護は国民の権利であり、そこをすっ飛ばして弁護自体を否定するのは短絡的である。
ただ今回の口頭弁論での弁護側の主張は荒唐無稽な苦し紛れなものに思える。
なんかまとまりの無い文章になってしまったが、私の意見としては昨日の最終弁論での被告人の様子などをメディアを通して聞いた限りでは「死刑」が妥当ではないかと感じています。情状酌量要素はあるとしても、やはり犯罪内容はそれを死刑から免れるほどのものではない・・・と。
ただこの死刑にすることは「正義」だとか「正しい」とかいう理由には立脚しない。
人(被告)の命を奪うことはやはり「やるべきことではない」としても、それでもやはり我々の生活と、子供たちの将来を守るためにはこの被告を社会に復帰させる訳にはいかない。では無期懲役でも良いか?というとやはり、今後同じような犯罪が発生しないためにも社会に対しての警告として我々は罪を犯してでも「死刑」にすべきではないかと思う。
今の時点ではこんな考え方なのだけど、数日したらまた変わるのかも知れない。
いっそのこと感情論に任せてしまった方がどんだけすっきりするか・・とも思ったりする。
自分の家族に同じようなことがことが起こったらどうするか・・・?
おそらく冷静に物事の判断はできず、感情的に死刑を望むだろう。
もし死刑にならなければ出所したときに自分で殺しにいくかもしれない。
そういった意味では本村氏の一連の行動は本当に賞賛に値すると思う。
私には到底真似できない。
人が人を罰する。
とても難しい問題。
ref:死刑になる犯罪