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言論の自由

東京地裁が週刊文春に出版禁止令を出しました。
は「表現の」「の自由」が侵害されるとめき立っているのですが、その処分が下された原因の記事は「元外相、田中真紀子衆院議員の長のプライバシーに関する記事」だそうです。そんなに田中真紀子の長女のプライバシー記事が大事なんだろうか?
「言論の自由」の権利も大事なんだけど、田中真紀子の長女のプライバシー記事ってそんな権利を主張するほど伝えないといけないことなのだろうか?なんかあんましょーもないことでその権利を叫ぶことは逆にその権利を貶めることにならないのだろうか?
ペンの持つ力の大きさを誇示せんがための行動に見えたり、もしくはその力の大きさに溺れて道を見失っているように見えることが最近の報道には多いように思う。鈴木以来人を悪者に仕立て上げて世間を同調させる快感にっているんじゃないか?と下衆な勘繰りをしてみたり・・・。なんか犯罪者に対しての不必要と思えるほどの嘲笑や糾弾とかもそういう勘繰りを加速させますな・・。時々気持ち悪いときあります。

「言論の自由」への4件の返信

今日、たまたま、床屋に行ったら、あったので読んだけど、クソ記事だった。内容はどうでもよく、大騒ぎするほどのこともなく、また出版する理由もなかったのではと、
思いました。文春も地裁も、もっと重要なことにエネルギーを使ってほしいね、

そーですかー。やっぱくそ記事でしたかーー。
どーでもいいですけど健介IWGPとりましたねーー。
なんかベルトとったらまた昔の健介に戻りそうで心配なんですけど・・・w

なんか泥沼方向に向かっているみたいです。
確かに些細なことでもそれが引き金になって言論の自由が損なわれていくという過去の事例もあるのですけど、だからといってなんにでもかんにでも拳を振り上げていくのもどーなのかなあと思ってしまいます。

文春の保全異議の申し立てを東京地裁は却下。
「記事は公共の利害に関する事項でも、公益を図る目的のものでもなく、著しく回復困難な損害を被る恐れがある」とのこと。この判断を聞いてはっとした。
そうだ、マスコミとはそういうものだったと改めて認識。
今はインターネットという責任の曖昧なメディアの中で嘘とも誠ともつかない多くの情報が発信されているが、元々情報発信するということは民衆啓蒙という役割を担ったものだったのだと・・。当然それで運営される法人はそれなりのプライドと自己節制が求められるものだったのに、今のインターネットの自由発信と混同してしまい、面白く刺激があり、購読数という具体的な売り上げに反映される事項を中心に取り扱うようになってしまったのだろうか??
一方でインターネット上での情報の制約という話もちらほらと聞くのだけど、その辺は個人的にはあまり賛同できない。インターネットって個人的には大きな井戸端会議のような場であって、(情報に関してね)その中には名刺をつけた人も名刺を付けていない人もごちゃまぜで話ができるというのが理想。井戸端会議を変に権威主義みたいなルールで縛ることはないんじゃないかと思ったりする。

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