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殺意を否定

最近裁判において心耗弱という弁護側の主張をよく目にする。
真実は別として、多用しすぎて裁判テクニックの一つのように感じられつつあるような気がすると同時に、心神耗弱=犯罪者のような認識をされてくる危険性も感じる。すでに心神耗弱が免罪の理由として適当なのか?という意見をネット上で見たりもする。さらに突っ込んで心神耗弱者=犯罪候補者として監視すべきという意見も目にしたりする。これは加害者、被害者双方のに深くかかわるシビアな問題であり、慎重に議論されるべき問題なのだが、現状としてはあまりに裁判で擁護要素としてピックアップされているためにを植えつけられている気がする。(ある意味性犯罪者の監視が引き金になっているのかもしれないけど)


弁護側がこの手法を用いるケースとして想定されるのが
1:「本当に心神耗弱」
2:「他に弁護要素としての手段が無い」
3:「被告、および被告の行動が理解不能」
という3つぐらいだと思うのだけど、最近特に(3)に相当する事件が多く、またそれがワイドショー的にネタになりやすいため取り上げられ、結果印象に強く残っている場合が多い。同時に「心神耗弱を主張」というのが取り上げられるのは裁判初期の罪状認否あたりのミングであり、これも的に事件とセットになって記憶される可能性が高い。
で、問題に思うのはこのタイミングでの「心神耗弱」はあくまで「主張」であり、精神鑑定の実施要求を行っている段階で「心神耗弱」や「精神鑑定」というをピックアップするのはどうなのか・・?という部分だったりする。
たとえば裁判で「心神衰弱」を弁護側が主張したが、その結果として裁判所がそれを判断基準として採用しない(つまり心神衰弱が認められない)場合に「心神耗弱ではない」ということは殊更主張されない。その結果我々のの中には事件と、弁護団の主張に過ぎない「心神耗弱」というワードが関連性を持って記憶されれることになる。弁護側が「心神耗弱」を唱えるのは仕方ないとして、そうでなかった場合のフォローも十分にすべきではないのか?もしくは「心神耗弱」を主張する場合は何かしらの医学的検査を行ってから主張するとかしないと、裁判テクニックにおけるワード「心神耗弱」は本来の意味と違った意味を持たされていく危険性があり、それは結果リアルの差別、迫害に繋がる可能性が高いように感じる。
ただまぁ医者というものが「心神耗弱」というものを明快に客観的に正確に判断できるのか?ということは良く分からないのだけど・・・・。そういった意味では「心神耗弱」の診断にこそ最も重要な差別が発生する危険が含まれているのかも知れない。

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