カテゴリー
2006

お前が死ねよ。

作家の坂東眞砂子が新聞で猫をしていることを告白して騒ぎになっている。
まぁごく一般的な意見を書いてしまうので、読み飛ばしてください。

「子猫殺し」坂東眞砂子
こんなことを書いたら、どんなに糾弾されるかわかっている。
世の動物愛護家には、鬼畜のように罵倒されるだろう。
動物愛護法に反するといわれるかもしれない。
そんなこと承知で打ち明けるが、私は子猫を殺している。
家の隣の崖の下がちょうど空地になっているので、生れ落ちるや、そこに放り投げるのである。
タヒチ島の私の住んでいるあたりは、人家はまばらだ。
草ぼうぼうの空地や山林が広がり、そこでは野良猫、野良犬、野鼠などの骸がころころしている。
子猫の死骸が増えたとて、人間の生活環境に被害は及ぼさない。
自然に還るだけだ。
子猫殺しを犯すに至ったのは、いろいろと考えた結果だ。
私は猫を三匹飼っている。
みんな雌だ。
雄もいたが、家に居つかず、近所を徘徊して、やがていなくなった。
残る三匹は、どれも赤ん坊の頃から育ててきた。
当然、成長すると、盛りがついて、子を産む。
タヒチでは野良猫はわんさかいる。
これは犬も同様だが、血統書付きの犬猫ででもないと、もらってくれるところなんかない。
避妊手術を、まず考えた。
しかし、どうも決心がつかない。
獣の雌にとっての「生」とは、盛りのついた時にセックスして、を産むことではないか。
その本質的な生を、人間の都合で奪いとっていいものだろうか。
猫は幸せさ、うちの猫には愛情をもって接している。
猫もそれに応えてくれる、という人もいるだろう。
だが私は、猫が飼い主に甘える根元には、餌をもらえるからということがあると思う。
生きるための手段だ。
もし猫がを話せるならば、避妊手術なんかされたくない、子を産みたいというだろう。
飼い猫に避妊手術を施すことは、飼い主の責任だといわれている。
しかし、それは飼い主の都合でもある。
子猫が野良猫となると、人間の生活環境を害する。
だから社会的責任として、育てられない子猫は、最初から生まないように手術する。
私は、これに異を唱えるものではない。
ただ、このに関しては、生まれてすぐの子猫を殺しても同じことだ。
子種を殺すか、できた子を殺すかの差だ。
避妊手術のほうが、殺しという厭なことに手を染めずにすむ。
そして、この差の間には、親猫にとっての「生」のの有無、子猫にとっては、殺されるという悲劇が横たわっている。
どっちがいいとか、悪いとか、いえるものではない。
愛玩動物として獣を飼うこと自体が、人のわがままに根ざした行為なのだ。
獣にとっての「生」とは、人間の干渉なく、自然の中で生きることだ。
生き延びるために喰うとか、被害を及ぼされるから殺すといった生死に関わることでない限り、人が他の生き物の「生」にちょっかいを出すのは間違っている。
人はではない。
他の生き物の「生」に関して、正しいことなぞできるはずはない。
どこかで矛盾や不合理が生じてくる。
人は他の生き物に対して、避妊手術を行う権利などない。
生まれた子を殺す権利もない。
それでも、愛玩のために生き物を飼いたいならば、飼い主としては、自分のより納得できる道を選択するしかない。
私は自分の育ててきた猫の「生」の充実を選び、社会に対する責任として子殺しを選択した。
もちろん、それに伴う殺しの痛み、悲しみも引き受けてのことである。(作家)
8/18 日経新聞朝刊~プロムナード~


何を表明したのか良くわからないが、タヒチに住んで8年たったことが猫を殺す理由になるとも思えないし、自分の考えを主張することも殺す理由になりえるとは思えない。(それともなにか?主義主張を貫くためには人ですら犠牲にしてもかまわないと言うセクト的な思考なのか?)「もちろん、殺しの痛み、悲しみも引き受けてのことである」というもの自分だけの問題。どう引き受けたのか詳しく聞きたい。ちなみに殺される猫のことや、与えた苦痛について考えているかは不明。
まぁ主義主張も結構だが、そもそも猫を飼うなよ。
殺すんなら子供産ますなよ。
キチンと子供ができないように見張っておけよ。
わざわざがけ下に放り投げて殺す行為は何を意味するのか?
命を奪うことでしか主張ができないと思うのなら自分が死んで主張すればいいじゃんか。
聡明な人なら坂東眞砂子の問いかけが分かるのかも知れないが、オデには到底理解できなかった。というかそんなものが聡明さなら、聡明さなどオデはいらないよ。
ちょっと家に帰ったらもう一度新聞をキチンと読んでみようと思う。
=====
さて、日経新聞から全文を写してみました。
要約としては「愛玩動物として獣を飼うこと自体が、人のわがままに根ざした行為なのだ。」ということに始まり、「獣にとっての「生」とは、人間の干渉なく、自然の中で生きることだ。」と動物の気持ちを断定してみる。
んでもって、避妊手術と子殺しを「子種を殺すか、できた子を殺すかの差だ。」として、今飼っている猫への愛情を優先し、その猫の幸せは「盛りのついた時にセックスして、子供を産むことではないか。」と推測し、とりあえずSEXさせて子供まで生ませてやって、親猫を幸せしてみる。
しかし生まれた子供は邪魔なので崖から叩き落しているということらしい・・・。
つまり「愛玩動物として獣を飼うこと自体が、人のわがままに根ざした行為なのだ。」だから、人間のわがままの延長でなんでもしていいじゃないか?ということかな?
そもそも獣にとっての幸せが「SEXして子供を生むこと」ではなく、「種族を反映させる」ことではないか?と思うのだけど、まぁそもそも「わがまま」という言葉の上での理論展開なので、あまり意味はない。
気持ち悪いのは

タヒチ島の私の住んでいるあたりは、人家はまばらだ。
草ぼうぼうの空地や山林が広がり、そこでは野良猫、野良犬、野鼠などの死骸がころころしている。
子猫の死骸が増えたとて、人間の生活環境に被害は及ぼさない。
自然に還るだけだ。

ナチュラリスト気取りの文節を挿入していることと、

避妊手術のほうが、殺しという厭なことに手を染めずにすむ。

という殉教者じみた言い回しを用いて、自らの行為を正当化させようとしている部分だ。

人は他の生き物に対して、避妊手術を行う権利などない。
生まれた子を殺す権利もない。
それでも、愛玩のために生き物を飼いたいならば、飼い主としては、自分のより納得できる道を選択するしかない。

人間のエゴであることは理解できるし、人間が自分たちの生活を守るために他の生物の命を奪うというのも理解できる。
ただ殺していることを懺悔しているように見せつつ、所々で問題提議をしていることに誇らしげな言い回しを含ませているのが非常に気持ち悪い。
そもそも「獣にとっての「生」とは、人間の干渉なく、自然の中で生きることだ。」と言いながら、猫を飼うことでそれを奪っておいて、「その本質的な生を、人間の都合で奪いとっていいものだろうか。」と後から疑問に思うのもかなり困った人だ。仕事でもたまにこういう人が居るのだけど、走り出したら腹を据えてもらいたい。
まぁ言葉を職業とする人なので、うまく言葉でそれらしく納得させれるような理論を展開できるのだろうけど、オデの本能的にこの理屈はまったく受け入れられない。

「お前が死ねよ。」への5件の返信

さて、まぁ色々な人が色々なコメントを書いているので、かなり被ってるとはおもうけど・・。
いくつか関連リソース&雑感を・・
「子猫殺し」直木賞作家 背景に「日本嫌い」
坂東眞砂子さんのエッセーに批判相次ぐ
この辺読んでいると日本で金を稼いで、タヒチに移住してゆうゆう暮らしている人の生活観(危機感)の無い人の日本批判というだけかなあ?この人が今どうやって生計を立てているのか知らないけれど・・・。
そもそもタヒチの首都から70kmも離れた田舎に住んでれば猫が増えて人間が困るほどのこともないと思うのだが・・。それこそ自然に近い環境ならそのままにしてても問題ないんじゃなかろうか?(そもそも家の中で猫を飼っていないから子供ができるんだろうし・・)その環境のなかで猫を殺すことがどれほどの重要な社会的責任なのだろうか?
死を実感したって自分が死と直面したとかならまだしも、車に引かれて死んでいる動物の死を見たぐらいでこんなことはじめるなんて、今までどんなのうのうとした生活をおくってきたのだろうか?と思う。
あとやっぱやたらと「自然」と「都会」を対比させて、ナチュラリストの同意を買おうとしていたり、いまいちこの発現の意図がつかみにくいなぁ・・。
別に猫を殺すことを駄目だとは言わないけど、この人が猫を殺す理由は言葉遊びの延長にしか過ぎない気がする。
早い話が「邪魔だった」から殺しただけじゃないのか?
それでいいじゃん。立派な理由だよ。
それを辺に小難しく理屈で正当化しようとするからへんてこなことになるんじゃないのか?

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です