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生きることと死ぬことの設計

病院がないほうが死亡率が下がる! 夕張市のドクターが説く、"医療崩壊"のススメ | ログミー[o_O]
「誰もがぬ」という前提を無視した「生きる==正、死ぬ==悪」的なは、UXD的にはペルソナの不足によって引き起こされた現で、UXD的に解決する場合、ペルソナの追加、もしくは超長期的なCJMの作成という手法によって検証ができるような気がします。
ただ、人の生き死にの話ですから、ペルソナのデモグラに非常に主観的な前提条件、死生観が入ってくることは否めない。
ジョブスへの弔辞の中の一節で有名な

私たちはみな、最後には、途中で死にます。
物語の途中で。
たくさんの物語の途中で。

的には真だとおもいます。
そして従来の医療は暗黙的にこれをペルソナとして駆動しているように感じます。


一方、先の夕張の話の中で述べられている

さっきのお婆ちゃん、呼ばないんです。なぜか。だって、もう、の終わりを受け入れてるんですね。
救急車っていうのは、この命を助けてくれ、っていう叫びのもとに呼ばれるものです。
あのお婆ちゃんは、助けてくれって思ってないんです。最後まで自分の家で生活したいって思ってるんです。

これをペルソナとして考える場合、実はその状態をデモグラにするだけでは成立しなくて、この思考に至る長期的な過程も含めてしないと無理が出てくる。
人の生死に係る医療に関しては実はそこまでしないと最適な設定はできない気がする。
つまりに関してのが必要になる。(ある視点に関してですが)
商品やらだとそこまで深遠な設計は必要ない場合が多いですが、人生の場合はUXDというのは「宗教」的な要素が多いのだなぁと。
そして逆にUXDというのは「商品、サービスを対象とした「宗教」を作ること」とも言えるのだなと感じた、とあるお盆の一日

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