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社会と個人の死

【衝撃事件の核心】31歳・元社長令嬢はなぜ餓死したか…冷蔵庫にはマヨネーズの空容器だけ
腐った遺体、大量のハエ、ゴミ屋敷…「特殊清掃」の現場を見た
んでしまえば皆一緒と言うけれども、孤独死を進んで望む人はあまり多くないように思う。
しかし少子化されなければ、10年、20年後の日本ではありふれた事件になっているのかもしれない。


先日、とある往生の記事を読んだ。
愛する家族が 余命48時間 と宣告された時に僕が決めたこと、したこと | No Second Life
100歳という大往生のお話なので、今の時点で自分事として実感は沸かないけれども、こういう死に方は幸せに見えるが、これは故人と社会の関わりというより、故人が生前築いてきた属人的な人間関係に依存しており、おそらく社会が個人の死に関わる際にこのような状況を作り出すことは難しいだろう。
もっとも、死というは、亡くなった人の心情が、故人とのコネクションに伴う感傷的要素を踏まえた周囲の想像に委ねられるため、主客が曖昧になってしまう部分がある。死ぬ直前に「幸せだった」と言い残した人が、死後そのを撤回しないかの確認はできない。逆もまた然りである。
長い人類ので作り上げられた葬儀という儀式が、故人でなく残された人たちのための存在になっていることも鑑みると、故人の体験結果を踏まえた理想の死に方は永久に知ることができないのだろうと思う。
全くもってまとまりのなく、何が言いたいのか不明な文章になってしまっているが、心の奥で蠢く何かが、身悶えしている感覚なのである。
の作り出す社会は、の幸せな了に役立つものなのだろうか・・・?

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