去年から「ヤンキー」が注目キーワードで、それに関連して次のような記事が話題とのこと・・・
元々ヤンキーは日本の本流であり、何を今更という感じもある。同時に「下流」「反知性」みたいな話の振り方に疑問を感じたりするが、今回のテーマでは無いので割愛。
さて、これらの「ヤンキー」について意見する人たちは、思春期にどの社会セグメントに属していたのか?
地方出身者(私も)にとって「リアル」における思春期のコミュニケーショングループ(社会)は「ヤンキー」がメインストリームである。
当然クラスの中の友達グループはいくらでもあるが、学年、学校を超え機能する「組織」を持つのは「ヤンキー」である。(一応ここでの「ヤンキー」の個人的定義を簡単に書いておくと、(1)プリミティブな欲求への依存割合が高い行動傾向 (2)身体性に密着した数と暴力に基づく関係性(3)自己犠牲、上下関係などの美化傾向)
非常に原始的で、強く暴力に依存した形態だが、思春期に遭遇する最初の社会と組織に対しての羨望は強いのだろう。そういう「ヤンキー」の世界に馴染めなかった自身を「落伍者」として認識している側面がある。当然、齢を減る毎に世界は拡がり「ヤンキー」以外の非暴力、複雑な社会形態を知るわけであるが、インターネットの無い当時にそういう世界を体験するにはそれなりの環境の変化が必要だった。
さて、「リアル(=ヤンキー)」から落伍した人間はどうしたか?
彼らの趣味嗜好に基づいた社会構築をするには、母数と距離(密度)の問題があった。構築は雑誌などのマスに依存し、文通、投稿など非常に小さい規模で構築されていた。そんな中登場したインターネットは空間の問題をクリアし、彼らの社会基板として一気に流通した。初期インターネットは「リアル」に馴染めないマイノリティの逃避場所的なニュアンスがあったように思う。年齢、名前、性別、モラル、タブーなんてものを無意味化した、逃避でありつつ、無限の可能性を占めたバージャル世界でのコミュニケーション。
しかしだんだんモラル、ルール、匿名禁止などのリアルのルールの侵食(それが逃避者の中で定義されている気がする)が始まり、リアルをインターネット上で自慢する「リア充」が現れ、「リアル」の交友関係がバーチャルに持ち込まれるようになった。逃避者による「擬似リアル」は「本リアル」の前では空虚である。そうして「リアル」から逃避者にとっての「インターネット」は、「リアル」に陵辱され、メッキが剥がれてしまった。
ここで論じられているのは「リアル」と「バーチャル」の関係だが、実は「ヤンキー」×「ヤンキーでないもの」だったりしないだろうか?(結果「メインストリーム」×「サブカル」という無難な形に落ちるのかもしれないが・・・)
「ネットヤンキー」という言葉の定義は、
表層的な定義であるように思う。自分にとっての「ネットヤンキー」は、「インターネット」に「リアル」を持ち込み、振りかざす集団を意味するほうがしっくりする。(そういう意味ではマイルドヤンキーを吊るしあげている集団がネットヤンキーになるのか?)
このようなことを書きつつ、コミュニケーションプラットフォームとして「インターネット」をビジネス的に活用する仕事をしている。だからと言って庇を貸して母屋を取られるような間抜けな話は無い。リアルでもバーチャルでも、ヤンキーへの微弱な劣等感を感じつつも、インターネットの特性を活かして、共存共栄出来る道を探って行ければいいのかしらね・・・?
後半グダグタ・・・orz
その他参考
最近ヤンキーが頻繁に取り沙汰されてるけど。表現が変化してるだけで別にずっと昔から存在してるんだよね… – Koichi Yanagimoto