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ネットのジェネレーションギャップとか

先日、この記事にコメントをつけてFacebookでShareした。

> はSEO対策されていて「リアルじゃない」
> 大人がやっているInstagramは「ダサい」
言い得て妙。
検索を軸とした情報共有にを感じた世代と、共有世界が前提の世代のギャップとでもいうか・・・。自分の世代はネットに開放を感じ、彼らはそこに制約を感じている。メタ概念の世代闘争とでも言うべきなのか?

たまたまインターネット黎明期に立ち会うことができた世代(25~45歳ぐらい?)が、いつのまにやら無自覚に「先端」を自負し『「検索を軸とした情報共有」が未来の形』と盲信する老害になっている可能性があることにショックを受けたわけだ。
ただ、まぁ一記事の話だし、まだ可能性・・つーぐらいとタカを括っていた。
だが、1週間ほどして、以下の記事を読んだ

うん、もう、これはジェネレーションギャップはあるね。
あるわ。あるある。インターネット老害あるある。
インターネット老害は、SNSやなど無い時代を経験している世代だ。
その時代は情報を発信する制約は無いが、敷居は高いという時代。
* プイダと別にサーバを契約
* URLはホスティング会社のドメインに/~hoge/というディレクトリ割当
* 静的をエディタで書いて、FTPでサーバにアップロードして情報発信
* コミュニケーションはPerlで作ったBBS(掲示板)
* Analyticsはトップに設置した訪問数カウンタ
こんなこと列記する時点で老害確定だが、まぁこんな感じだったので、インターネットは「発信能力のある人たち(大学や企業)の情報で構成されている情報世界」という認識が暗黙であった気がする。その時はそれよりも「検索で世界中の情報にいつでもリーチ出来る」「情報発信する術を持たなかった個人の経路獲得」なんていう利便や可能性に目を奪われ、HTMLの文章構造、表現手法、情報なんて新しい・規格・仕様に喧諤々して、個人のどうでもいいクソ情報を発信することに躍起になり、情報の裏に潜む意図の精査するなんてものは二の次だった。
だが、SNS前提の個人発信ありきの世代からすると、インターネットはノイズにまみれた世界で、検索で得られる情報はクソでしかなく、インターネット老害が言うところの「紙媒体」ぐらいの閉ざされた世界として捉えていることが分かる。これは、汚染された川を当たり前のように受け入れていた高度成長期世代と、環境保護という意識を持った世代のギャップに近い。
この事実は、ネット広告関係者は肝に命じなくてはならないだろう。
そして、その領域へステルス的介入が、インターネット老害世代の想像を超えた敵意を生み出すリスクを検討する必要がある。(さくっと違うサービスに乗り換える可能性もある)
しかし、それよりも、老害は自覚なく存在するから老害なのだと改めて理解した。
襟を正さねばなるまい。

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