大豆食品メーカーかねさ(青森市、阿保建司社長)のミネラルウオーター「梵珠百水」が初出品の二〇〇二年から四年連続で大金賞。顆粒(かりゅう)みそ汁の「パラミソ」シリーズも大金賞に次ぐ金賞。パラミソは〇二年に大金賞、以降三年連続で金賞。
酒造業の鳩正宗(十和田市、稲本修明社長)の純米大吟醸「吟麗」が、九年連続の金賞以上受賞。一九九九年、二〇〇三年には最高賞の大金賞。
こういう話はもっとニュースになればいいのに・・。
カテゴリー: Design
開発すること、みんなに使ってもらうこと
WhatTheFont : MyFonts
What The Font?! / my fonts
フォントの画像をアップ、もしくはURLを送るとそのフォントを調べてくれるツール。画像から文字の分解までは非常に期待を持たせる展開なのですが、検索結果を見てこけました。⊂(´∀`⊂⌒`つ≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡
興味のある人お試しあれ。
やっぱ野村総合研究所の知的資産創造のロゴはカッコイイと思います。
そんだけー。
cadence : www.threadless.com
Tシャツコンペをshunさんのブログを見てオデも参加。
リンクを開いて、上部の”select you'd buy it,then give it a score”の”5”を押すとよいです(嘘、キチンと評価してくれていいですw 実際買うわけじゃないんですけどね)
最低点とかだったらどーしよう?こーいうのドキドキして楽しいw
いまさらですがメモ。
OSCON2002基調講演
ローレンス・レッシグ教授の2002年オライリー・オープンソースコンベンション基調講演
自分を守るということは相手を傷つける可能性があるということ。
じゃあ自分を守るのをやめればいいのか?は不明。
そんなに世の中は一筋縄ではいかないような気もする。
だからといって諦めないでそういう願いをみんなが持ち続ければ
いつかはできるんじゃないかしら?
とか甘ちゃんなことを言ってみたり。
和とモダンを融合させたデザイン
「「KOTO」は、現代に残る普遍の美をコンセプトに、和の要素とモダンを融合させたデザインモデルです。和楽器の「琴」が持つ胴面の張りや直線をデザインに取り入れたほか、ダイヤルキーを琴の弦のように細く繊細に仕上げました。鮮やかな朱「R」と静謐(せいひつ)で力強い黒「B」の2色のカラーで、モダンなイメージを一層引き立てるとともに、表面の漆器を思わせる艶やかな光沢感と、ダイヤル面の落ち着いた艶消しで質感にもこだわることで、コンセプトである和とモダンの融合を表現しました。」
すいません、狙っているところは分かるのですが、全然感じるものがありませんでした。和風のテイストもまったく感じなかった。auのやつに比べてインパクトが弱いように思います。実物をみるとまた違うんでしょうか?
美術系の学校を出ているわけでもなく、そういう教養があるわけでも無い俗物なので、芸術とは何か?アートとは何か?その二つが同じものなのか、違うものなのか?もよくわかりません。昔はSEXとオナニーぐらいの違いかなと思ったのだけど、どーもそう簡単に片付くものでもないことはなんとなくわかってきた。
最近は何のジャンルでも「おーーっ!」と人を感動させることができれば「アート」になるのかしら?とか思うのですが、「デザインはアートだ」という前提条件としての話を聞いたりすると混乱してしまいます。
「アートしているので貧乏」とか「時代がついて来れない」とかいう話を言われると、「ん?」と考えてしまう。自分で「アート」しているとか言う言葉にも「?」。また「アート」をしているということで自分の現状を肯定するような発言にも「??」と考えてしまう。自分で「アート」って宣言すれば「アート」になるものなんだろうかしら?とか・・。時代を先取りとか何の根拠があって言えるのかしら?とか・・。(将来結果論的にいうならわかりますが)
絵画もそれはただ純粋に絵画で、それが第3者からみて「おー!すげえ!」とか何か心を打つものがあって初めて「これはアートだね」ということで「アート」になっていくのかしら?とか、本人が「アート」だと言っても「なんだよこれ、しょぼー」ってなったら普通の絵画じゃないの?とか思うのですが、そんなに簡単なものではないですかね?
「売れればアート」というのも語弊があるような気もしますが、売れなくても「アート」ってのも「?」。まぁこれは売れなくても生活できたりする人に対しての僻みもあるかも知れないですが・・・。
まぁ特に言葉や定義とかにとらわれる必要もサラサラないので、「アート」だって言われれば「へぇこれはアートかぁ」と思うのですが、岡本太郎が亡くなった時の横尾忠則の寄稿を読みながらちょっとその辺考えたりしてみました。(横尾忠則の語っている内容まで到達しないところで・・、ですけど・・・w)
以下1999/10 Eureka 「芸術家とその作品について」横尾忠則よりところどころ抜粋
美術界はあんまり大衆化されてしまった作家にはどうも冷たい。美術、あるいは美術家は聖なるものでそう簡単に俗なるレベルに受容されてはならぬという信仰がかなりあるみたいだ。
どうして生きているときと死んでから作家や作品の価値が変わらなければならないのかぼくにはよくわからない。生きているときに大衆の評価と同レベルで美術界が評価するのは沽券にかかわるとでも思っているのだろうか?美術界が高く評価するものと大衆が高く評価するものとは違う。しかし歴史的に見ると結果は大衆の評価が普遍的な評価になっていることが多いように思う。現在のように大衆情報社会の中では特にそうだ。
都合のいい時だけ一つに結び付けて、キャラクターを否定するついでに作品も無視するみたいなことは、大体大衆が考えることではなく、美術界が考えることだ。
「一点の傑作など大して重要ではない。それよりもその人間が何者であったということだ。」何を描くかではなく、どう生きたかが問題である。絵はたかだか絵でしかない。それなのにどう生きたかを美術界はどうしてもっと高く評価しないのかがそれこそ問題である。
個人的には岡本太郎とかとっても好きなのですが、美術界ではあまり認められていないらしいですね。(昔岡本太郎好きだって言ったときに「彼はたいしたこと無いよ、世界的には評価が低いからね」とか言われて、別に世界的な評価とかどーでもいいんですけど・・と、ちょっとムカッと来たことがありますw)